前にも触れたが、大学4年生の時、築地市場内でアルバイトをしていた。夜の12時に出勤して、朝8時に仕事が終わる。バイトのおっさんと場内の食堂で一杯やって、お日様が照りつける中、サラリーマンと逆方向を赤ら顔でフラフラ歩く。銀座5丁目のソニービルにあるマキシム・ド・パリを通り越し、4丁目のミキモトビルのレカンのメニューを物欲しげにジロジロ眺めたあと、シェ・イノをドア越しに覗き込んでから東京駅まで歩いて帰路につくのが日課であった。『グルマン(見田盛夫・山本益博共著)』というフランス料理レストランを星1~3つで紹介するミシュランのような本があって、そこに掲載されている三ツ星レストランを巡っていたのである。アピシウス、シェ・イノ、トゥール・ダルジャン、マキシム・ド・パリ、レカンの5店舗が三ツ星(その後ロオジエが加わる)で、トゥール・ダルジャン以外は銀座地区にあった。その後銀座で就職して、相変わらず仕事帰りに玄関だけは眺めていたが、結局マキシム・ド・パリとレカンでは食事をしていない。
レカンの二代目料理長は現在シェ・イノのオーナーを務める井上旭氏、そしてその当時の三代目料理長は城悦男氏で、なんと30歳にしてレカンのシェフに就任した強者である。テレビ番組『料理の鉄人』では鉄人・坂井宏行シェフを破り、『ソースの城』という異名を持っていたフレンチバカ憧れのシェフである。現在は六本木のお店でオーナーシェフをされている。
この度、30年前に叶わなかった憧れのレカンにとうとう行ってきた。レカン(L'ECRIN)とはフランス語で『宝石箱』という意味である。銀座4丁目のミキモトビルの地下にある。ビルの建て替え工事で一旦閉店していたが、2017年6月に2年半ぶりに営業を再開した。一階のドアを入ると小さなレセプションカウンターがあり、たしか以前あったはずの階段ではなくエレベーターに案内される。地下一階に降りるとホールは思ったより広くはなかった。照明が抑えられた薄暗い空間は、ベージュの色調が気品を醸し出している。壁際の丸いテーブルに通された。
若いが数々のワインコンクールで賞をとっている長身の近藤佑哉シェフソムリエがやってきて食前酒を訊いてきた。
「アミューズ・ブーシュ(amuse bouche一口サイズのおつまみ)が参りますが、食前酒はいかがいたしましょうか」
「グラスでシャンパーニュをください」
ポメリー・キュヴェ・ルイーズ(Pommery Cuvée Louise)、レカンオリジナルシャンパン(R&L Legras Extra Brut Cuvee L'écrin)と、もう一種類ロゼと3種類提示された。ここは全力を出し、迷わずルイーズに決める。
「シャンパンのご注文の仕方で只者ではないことがわかりましたよ」
とソムリエに言われたが、何がそう思わせたかさっぱりわからん。うまいこと持ち上げただけかな、さすがレカンのシェフソムリエである、ワインバカのオノボリさんの心を擽る。
アミューズが3品も出て、その後オードブル、魚料理と長く続いたので、シャンパーニュだけでは到底足りずに、グラスの白ワインを注文する。ロワールのシュナン・ブラン、ローヌのルーサンヌ・マルサンヌ。どちらも比較的軽いタッチのものであり、オードブルの栗カニやタイラ貝との相性が非常に心地よい。
赤ワインは、シャトー・モンローズ1989(Château Montrose 1989)を選択する。シャトー・モンローズは、メドック格付け2級のスーパーセカンドワインで、ボルドー左岸最北部にあるサン・テステフ村で秀逸なワインを造り出している。普段では手の届かない高級ワインである。かつてその土地がヒース(秋に花を咲かせるエリカ属の植物)に覆われていて、開花すると一面が薔薇色に染まったことから、モン(山)ローズ(薔薇)と名付けられたらしい。ワインの選択は、いつもソムリエにまかせるのだが、分厚いワインリストを渡されて眺めていたら、想像していたよりボルドーのグランヴァンがお得である。料理のメニューから今日はボルドーが合うのではないかと思い、ソムリエに訊いてみると、やはりボルドーが良いという。ここもシェフソムリエの上手いところだ。たぶん、私の自尊心を尊重したのであろう。若いのになかなかやる男である。にくいぞ近藤ソムリエ!
渡邉幸司シェフの料理は繊細だと聞いていたので、同じ村のシャトー・コス・デストゥルネル(Château Cos d'Estournel)も好きだが、モンローズのほうがエレガントなのではと思い選択した。リストには1998、1995、1989、1975年があり、ソムリエに「98と95はまだ固いでしょう?」と訊くと、やはり固いと言う。ならば何故かたいして金額がかわらない89年がよかろうと思い注文する。モンローズは、1972年から1988年の間は評価が低い。1989年から劇的に評価が急上昇する。私の生まれ年の1964年もモンローズにとっては偉大な年であったが(約20年前に飲んで素晴らしかった)、この1989年もモンローズ復活の超偉大な年である。抜栓直後は思ったより固く閉じていて、タンニンも強めであったが、デキャンタージュにより見事に花が開き、タンニンもみるみるうちにこなれていった。外観は深い真紅。光にあたり、ルビー色にキラキラしたクリアな輝きを放っている。ブラックベリー、ラズベリーのような果実の力強い凝縮感があり、ハーブやショコラ、熟成によるトリュフ、土、これでもかという複雑な香りが何層にも折り重なる。上品な甘みと、時間が立つにつれて溶け込んでいくタンニン、長くたなびく余韻。久しぶりに飲んだモンローズは至極素晴らしいものであった。
メイン料理のあと、まだ赤ワインが残っていたので、ワゴンのフロマージュを追加で注文する。デザート時に貴腐ブドウが入ったロワールのシュナン・ブランの極甘口ワイン(カール・ド・ショーム・ドメーヌ・デ・ボーマール Quarts de Chaume Domaine des Baumard )を飲む。このデザートワインが秀逸な出来で驚いたので、ソムリエに「バランスが素晴らしくて、完璧なワインですね」と言ったら、『そうだろう』というような満足そうな笑みを浮かべて、入手の困難さを教えてくれた。さらに大好きなアルマニャックが充実してることを知って、堪らずショコラなどに合わせてアルマニャック地方で最高の土壌といわれるバ・アルマニャックのラバステッド・ダルマニャック村で作られたブランデー(Bas-Armagnac Domaine de Pouteouドメーヌ・プトー)を注文する。フォル・ブランシュとバコという希少なブドウ品種を使用したブランデーである。さらに、もうやめときゃいいのに、締めにレカンオリジナルシャンパンを注文すると、メートル・ドテル(maître d'hôtel給仕長)らしき方が「締めシャンですか!」とニヤリとしやがる。まあ、たしかにアホみたいによく呑んだけどね!
憧れの銀座レカン、さすがのグランメゾンである。一点の曇りもないサービス、料理は上品で繊細でオシャレでまさに宝石箱『レカン』のようであった。最後は、シェフとシェフソムリエが店の外まで見送りをしてくれた。ひとり7万円も払ったんだから、まあ当たり前といえば当たり前か。明日からカップラーメンで生きていく。
<menu>
1.アミューズブーシュ三品
2.栗カニのビスクムース、キャヴィア、空豆のコンソメジュレ、花穂と新しょうがのエイグルドゥス
3.フランス産ホワイトアスパラとタイラ貝のテクスチュール、唐墨と生アーモンドのラぺ、タロッコオレンジのピュレ、ソースマルテーズ
4.マナガツオのヴィエノワーズ、春野菜のコンディモン、アンチョビと黒オリーブのタップナード、フレッシュハーブソース
5.短角牛のロティ、グリーンアスパラとポテトのスピラル、モリーユ茸とプティポワの軽いラグー、マデラワインソース
6.ワゴンフロマージュ
7.季節のデザート
8.ワゴンデザート
9.キャフェ・ミニャルディーズ
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